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发布日期:2024-10-27 10:50    点击次数:53

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コマ割りの継起性、連接関係の步地分類 bt工厂最新地址

コマとコマとの連接関係(つながり方)を、分析的に分類したのがスコット・マクラウドであるbt工厂最新地址。

コマのつながり方は、極端に言って、2通りしかない。同じモノが描かれているか(○解除性)、違うモノが描かれているか(×解除性)、である。ただし、同じモノを続けて描く場合でも、どう描くかその阐扬の仕方によって細分化できるだろう。同じように、違うモノを描く場合であって、やはり細分化できるだろう。こうして、マクラウドは、次のように6通りに分類したのである。

なお、マクラウドのコマ分類に関しては、私の著書『楳図かずお論』の第7章、第8章でかなり詳しく検討しています。この二つの章は、元の発表論文がネット上で読めます。选录は、ここで説明しますが、もし興味が有れば見てください(長いです)。

第7章「楳図かずおのコマ割り理論」 _ 第8章「マンガにおける二つの概略」

*マクラウドのコマ分類は、本体(ストーリーや雰囲気)、步地(大きさやカタチ)、並存性(頁や見開きのまとまり)を捨象し、コマ同士の繋がりだけを取り出している点で、極めてスマートである。 *6分類の称号のそれぞれ<瞬間→瞬間>型、<動作→動作>型などは、単に「瞬間型」「動作型」としたい。瞬間から瞬間へ繋がるのではなく、繋がって事後的に「瞬間だ」と分かるからである。 *瞬間型と動作型の違いは、流れる時間の長さでは説明出来ないだろう(目をつむったり蜘蛛が移動したりする時間より、バットで球を打つ時間のほうが短いだろうから)。他の四分類もふくめ、旨趣的な説明が必要である。 *このコマ分類は、言語学モデルであり、言葉に還元可能である。下の表では青字で例示しています。 1. 瞬間型moment解除物の一連の動作を表現するとともに、その動作のニュアンスや共示的意味、動作东体の神志を表現する。または、対象举座における一部分の変化を表現している。*ショットの切り替えがあっても可女の目が→閉じられた土星に→近付く 2. 動作型action解除物の一連の動作を、外示的(字義的・リテラル)に表現する。または、対象举座における総体の変化を表現している。△ショット・アングルの切り替えも可ボールを→打つ注がれたシャンペンを→飲み→げっぷ 3. 主体型subject①非解除物を描く。东说念主であれ物であれ、描く対象が切り替わる。すなわち視点の変化がある(ショットの切り替え)。②対象自体を外示的に表現する。△解除対象のショットの切り替えでも可惨殺行為が→夜行われた男→女→電話 4. 場面型scene非解除場面を描く。別の場面・時間への転換。順序は不可逆的。その10年後(時間的転換)寰宇中(空間的転換) 5. 时势型aspect①解除場面での種々の様相(时势)を描く。順序は可逆的で、ストーリーは進行しない。②一部を見せることで、場面举座を表現する(提喩的表現)。クリスマスの諸相日差し→サングラス→雲、でなく野外で空匮な気分、いずれも可逆的 6. 関係なし型non relation  無関係。ストーリー優先でない。アトランダムな狂気显然な意味を捏たないインサートショット 狭義の運動表現は、「1. 瞬間型」「2. 動作型」に当る。すなわち、解除物の運動である。これに加えて、出来事や神志の表現として、1~6まで、举座が使われる。

動作型と瞬間型の区別

基本的には、動作型が一般的な動作を描くのに対し、瞬間型は二つのコマに描かれた絵の差異や変化が大きくなく、また流れている時間も比較的短い、というような説明が可能なのだろう。しかし、案外、違いは深奥。

マクラウドの引例(瞬間型)/手塚治虫『ブッダ』のブダイ将軍が振り向くシーン(2~7コマ) 、これは振り向くという動作なのか、振り向くという瞬間なのか。なんとなく分るような分からないような感じだろうと念念う(振り向くというよりは、将軍は動かず、カメラが移動しているか)。 -->

このコマ分類は、正解か不正解か、というよりは、作品の読み・相识そのものである。たとえば、部屋→机→ナイフ、の場合、単に「部屋ですよ」なら时势型だが、「後に凶器となるナイフがここにありましたよ」なら主体型である。つまり、初読が二度目かでも変わってくる。

まとめ: 対象物、連続意味・表現分類型 解除物一連共示的、部分的1. 瞬間型 moment 外示的、総体的2. 動作型 action 非解除物一連①解除場面、②外示的3. 主体型 subject 非連続非解除場面、②外示的(時空の転換)4. 場面型 scene 一連①解除場面、②提喩的(諸様相)5. 时势型 aspect 非連続無関係、インサートショット(時空の転換)6. 関係無し型 non relation

図版:再掲

修辞学(レトリック)余談:比喩の4態 称号(別名・英語) 特徴と旨趣:例文 直喩(明喩・シミリー simile) 類似性:(似ているもの)両者の昭示:雲のような綿アメだね 隠喩(暗喩・メタファー metaphor)比喩対象の隠匿:その雲おいしそう。うらなり、やまあらし、坊ちゃん 換喩(転喩・メトニミー metonymy) 近接性:(近くのもの)赤頭巾ちゃん、赤シャツ、メガネくん。ランドセルが歩いてきた。親戚を県名や都市名で呼ぶ 提喩(シネクドキー synecdoche) 举座と部分:(包摂関係,色无极影视积蓄と身分)东说念主はパンのみにて生くるに非ず(パン<食品)。しずこころなく花の散るらむ(花>桜)。漱石を読む(东说念主物>作品)。絵を見る(ジャンル>作品)。ガンバレ日本(国籍>日本东说念主選手)。大阪东说念主は笑いのセンスがある(府民>個)

注:類似性(似ていること)と近接性(近くにあること)とで比喩を区別するのは、明快だと念念います。この二つの性質は、連想を栽培させる二つの独处身分とも言えます。それに比べると、提喩は換喩と明快には区別できないと言う东说念主もいます。近接性とは举座における部分の置きかえだ、というわけです。メガネや赤いシャツはAさんの近接的な置きかえであるが、Aさん(举座)における一部(装身具や一稔)だとも言える。以上をまとめると、類似性と近接性とは区別可能だが、近接性と举座・部分とは田地が曖昧だ、ということです。

類似性に基づく比喩のうち、比喩表現と比喩対象とがどちらも昭示されているのが直喩、比喩対象が隠匿されているのが隠喩です。近接性に基づく比喩には、比喩対象が隠匿される例しかなく、どちらも昭示される例が無いのはなぜでしょうか。「三つ編みのセーラー服が歩いてきた。」(換喩)、「三つ編みの髪形でセーラー服を着た中学生が歩いてきた。」これは比喩ではなく、字義的な表現ですね。

以下、実際に適応してみましょう。

(ひらいまさね『幸福の齐唱(コーラス)』金園社・刊記有り・1956年刊)。舞台劇的手法。几许の場面転換はある。動作型と主体型である。もっとも単純なコマ割り。小津安二郎風?

小津安二郎『此岸花』:举座は主体型。ショット=リバースショット(カットバック)。ただし、イマージナリーラインの滋扰がある。0:40 二东说念主とも右を向いている、1:40 メガネを外してお茶を飲む、 --> 『カムイ伝』(小学館文庫・12巻1995刊、1964~1971年作品)。どう読むか。これらは时势型でなく、動作型です。 【図】手塚治虫『ブッダ』(1972~1983年作品)、瞬間型の例(1)マクラウド自己が挙げている例。特別に立てる意味がわかるでしょう。深奥なニュアンスの表現で、ドンパチやるだけのアメコミと違って、日本のマンガには深みがある、と言っています(80年代のアメコミにくらべて)。ニュアンスの表現という意味では、クロースアップに近い気もしますね。 【図】辰巳ヨシヒロ『劇画飘动』瞬間型の例(2)。1955年の作品について、ここで映画的手法と呼ばれている[連続的運動性]①。

マンガにおける映画的手法の内実。 ①運動・変化・時間の表現。 ②構図・アングルの変化。クロースアップ。移動するカメラ。 ③視線の解除化。 ④モンタージュ効果。場面転換、カットバック。

①はワンショット、③④はモンタージュ、②はどちらでもありうる。マンガにおける「映画的手法」という場合、これらの諸点が混同されて語られるので、きちんと区別しないといけない。当天では、映画的=手塚、というわけではない、という議論がなされている。

左・大城のぼる『汽車旅行』1941年、右・手塚治虫『新寶島』1947年

【図】楳図かずお『別寰宇』(1955年)瞬間型の例(3)。楳図もこれを欢叫とした。同時に、映画的手法として、視線の解除化、クロースアップなども認められる。

【図】石森章太郎『龍神沼』1961年の作品。カットバック(正確にはパラレルアクションと言う。複数の舞台を切り替えながら表現する。動作型と場面型の複合)

pdf ただしカナビポータルのアクセスのみ

やっぱり大友はすごいな、という気はしますが、技術的な意味ではすでに石森が十分に展開している。amazonレビューに「単純明快で良い」とか書いてあるが、とんでもない。1961年段階でこんな作品が描けるなんて、異次元东说念主である。楳図も、もうすこし地味な作品を描いている(か?)。 【図】大友克洋『童夢』1983年、双葉社、131頁。映画的[カットバック、ショットの切り替え]動作型と主体型の複合。

1・3・5のみを取り出せば、単純に動作型。その間へ2・4を挿入している。つまり主体型として、ショットの切り替えがある。カットバックもまた映画の手法であったが、それがマンガにも応用されたのである。 映画との比較

マンガは、他の映像メディア(映画)と比較すると分かりやすい部分がある。

*感動的なので、あとで一说念見ておいてください。私がこのVTRで言いたいのは、正果然銘のノーカット、まさしくワンショットであるということです。白紙をよむ勧進帳。

*ショットの切り替えがあることを確かめて下さい。描かれた時間は連続していますが、ショットは切り替えられています。映像を特に意識して作ったり見たりしていないと、この切り替えに気付かない东说念主もいるのではないですか。 以下、セリフを書き出していますが、 ---- のところで、ショットの切り替えがあります。カメラは二台で、一発録りでしょう。[cf. 男はつらいよ/寅次郎紙風船]

----(クリスマス音楽)車さん、速達です。 はいごくろうさん、ども。 お兄ちゃん。これお兄ちゃん宛よ。 だれなんだ。 ---- 日の丸物産株式会社。 寅が試験受けた会社じゃないか。 ほら、ちゃんと见知、来たじゃないの。 いいチャンスだぞ、お前の东说念主生を変える。 そうだよ。 ---- 折角だから、封切ってみるか。 うん。 ---- どれ、おれが見てやる。 ねえお兄ちゃん。 ん。 ---- みつえさんとの間に何があったか知らないけど。一ヶ月でも二ヶ月でも働いてみたら、あの会社で。ね。そしたらまた新しい寰宇が開けるかもしれないじゃない。ねえ、おいちゃん。 ううん。 どしたの。 なんて書いてあんだい。出社はいつだ。 ---- 見えねえんだよ、メガネがないから。 しょうがないねえ、ちょっと貸してごらんよ。「このたびは当社の就職……」あたしも見えない。 何やってんのよ。 ---- ---- お前も目、悪くなったのか。 ---- ごめん。不採用だって。 ---- (音楽~) ふふふふ。はははは。こらあ、とんだ三枚目だ。

(それにしても四东说念主とも上手いです。寅はテキヤで、職業に貴賎はないとすべきだが、徹底して定職捏ちのみがまともな东说念主間として描かれている。狡黠な差別主義を布景に描かれた、監督山田洋次はもちろんその狡黠さに自覚的である、情面悲喜劇である。寅自己もずいぶん我がままな存在として描かれてもいる)

[cf. AC広告機構 黒い絵]

用語の確認:ショット(フィルムの切れた単位)、シーン(描かれた場面の単位)、シークエンス(描かれた物語の単位)

この作品には、時間的な飛躍(場面転換)があります。場面は、学校(教室、教務室)、少年の自宅、医院(診察室、病室)、体育館。マクラウドのマンガのコマ分類は、こうした映像作品のシークエンス分類にも、おおよそそのまま使えます。冒頭部分、黒い絵の前に三つの絵が领导されます。ピカチュウ、ピンクの兔、クワガタムシです。このシークエンスが表わしている意味はなんでしょう。ある子は黄色いピカチュウを、ピンクのウサギを、茶色いクワガタをそれぞれ描いている、でしょうか(これなら主体型です)。そうでなく、それぞれほかの子はみな全員カラフルな絵を描いている、ではないでしょうか(これだと时势型です)。主体型はそれ自体を示しているのに対して、时势型は描かれたものを含む举座を表現しているわけです。作中、描かれる病室で黒いクレヨンを塗っているシークエンスも、「黒く塗っています」という動作型というより、「ともかく描き続けています」という时势型でしょう。両親、教員、医師や看護師がもう呆然としていますが、その中で、担任教員が少年の机の中から何かを見つけます。ここの意味はなにでしょうか。呆然としているだけなら时势型ですし、何かを見つけたも时势型です。ここは、パズルのピースを見つけた!という動作型、いや、机の中にあったパズルのピース!という主体型でしょう。担任教員の動作は緩慢で気付きにくいものですが、続く看護師の動作は大きく、ここで一気に何かが発見されたことが、この大きな動作で昭示されます。最後に現われたものは、何でしょうか。クジラでしょうか。あるいは、たんに黒い何かかもしれません。すこし分かりにくいですよね。それが何か、そのエネルゲイアが明確でなくても良いのです。それが何であるか分からないこと。未規定なもの。デュナミスこそが想像力を起動させるのですから。《子供から、想像力を奪わないでください》。……なぁんてね。

マンガと映画の対比に戻っていきましょう。

映画のモンタージュの步地分類

モンタージュ……物理的には至極単純。つなぎ方には2種。オーバーラップ(二重露光、ディゾルブ。フェイド)、ストレート・カット(そのまま繋ぐ)

モンタージュ理論……モンタージュを使った映像の典型例がエイゼンシュテイン『戦艦ポチョムキン』(1925年、ソ連)。クレショフ効果。男の顔→スープ、というモンタージュと、男の顔→女性からの手紙、というモンタージュ。男の顔は解除であるにも拘わらず、前者の顔は「空心」を意味し、後者の顔は「失恋」を意味する、といった効果。

クリスティアン・メッツによるモンタージュ・タイプ(「フィクション映画における外示の諸問題」『映画における意味作用に関する試論』浅沼圭司訳、水声社。2005年刊。原著はジェイムズ・モナコ『映画の教科書』フィルムアート社にも)。連辞(=シーン、ショット)が、どのような関係で編集されているか、それを8つに分類した。

連辞(シンタグム、サンタグム):もともとは、論理学や言語学の用語。主語と述語など、言葉をつなぐ、その関係。映画では、映画作品を構成する諸身分(ショット、シーン、シークエンス)の物理的な連続建立が、意味的にどのような関係にあるか、これを連辞関係として転用している。

解除(対象、時間・場所)か否か、物語的な連続がある、外示的か組織的か、これらの観点により8つに分類される。 その前後のショットと、物語的関連(一連の)があるかないか。連辞になってるかどうか。(ない → 1. 自律的ショット)インサートショット(挿入されたショット、4種類ある)、ショット=シークエンス。 時間的順序に従っているか。(時間的でない → 2. 並行連辞(パラレル・エディティング)、3. 括弧入り連辞) 2. 並行連辞:複数の場面を並行して語る。パラレル・アクション。(例)金捏ち眷属のシーンAと貧乏东说念主眷属のシーンB。AとBの生起順や因果関係は問われない。 3. 括弧入り連辞:「一連のごく短い数場面。いくつかの出来事を、時間的に関連づけずに解除の次第や現実の典型例として表すもの」。提喩。(ピカチュウ、ウサギ、クワガタは、その順に描かれたわけでない) 物語的な展開があるか。(ない → 4. 記述連辞) 4. 記述連辞:モンタージュ、パンなどにより、いつ、どこか、舞台上に誰が何が有るか、などの説明を行う。(例)風景の面容(動かない対象として、一册の樹木、その樹木の一部分、傍らの小川、遠くの丘)、移動中の羊の群れ(動く対象として、羊たち、羊飼い、犬など)。4.記述 descriptionと5.阐扬 narative とは明確に区別される。阐扬は主語―述語の語りの関係であるが、記述は主語的です。つまり物語的展開はない。 直線的に物語が展開するか。(しない → 5. 轮换連辞) 5. 轮换連辞:並行モンタージュ(クロス・カッティング)。加快度モンタージュ、フラッシュバック。カットバック(追う者と追われる者)、ショット=リバース・ショット(リバース・アングルとも。会話スタイル)。(例)AがBを、CがDをしている。 連続的か否か。(連続的 → 6. シーン) 組織化されているか否か。(非組織的 → 7. ふつうのシークエンス、組織的 → 8. 挿話的シークエンス) 7. 挿話的シークエンス:非連続でありながら、それぞれの各々のシークエンスは、他のシークエンスに対して独自性を捏つように組織化されている。(例)夫婦の愛情の破綻を6つの異なる時間のフラッシュパンでモンタージュしたシークエンス。即ち、優しい語りかけ、些細な違和感、口げんか、罵り合い、無視。それぞれが一つの様相であるのと同時に、举座で愛情の破綻が示される。 8. ふつうのシークエンス:外示的に示される出来事。なお、メッツはシーン(時間の途切れ・飛躍がない)、シークエンス(時間の途切れ・飛躍がある)と区別している。

以上のメッツのモンタージュ分類が粗鲁的で分類困難なものも多いのは、マクラウドのコマ分類と同じである。が、ある历程有効。また、この二つは、势必的に類似してくる。同じものか違うものか。時間順か否か。それ自体か(字義的)、それを含む举座(比喩的)。そしてどちらも言語還元的。

しかし、決して同じではない。それはマクラウドとメッツの特性的厳密さの違いか?、あるいはマンガと映画の違いか?

メッツ・モンタージュ マクラウド・コマ 1. 自律的ショットインサートショットショット=シークエンス 6. 無関係型4.場面型 2. 並行連辞 4. 場面型、3.主体型(非因果的) 3. 括弧入り連辞 5. 时势型(可逆的) 4. 記述連辞 5. 时势型(不可逆的) 5. 轮换連辞 4. 場面型、3. 主体型(因果的) 6. シーン 1. 瞬間型、2. 動作型、3.主体型 7. 挿話的シークエンス 1. 瞬間型、2. 動作型、3.主体型、5. 时势型 8. ふつうのシークエンス 1. 瞬間型、2. 動作型、3.主体型 複数の場面・主体を交互に描いている(因果あり、因果なし) 一連の場面・運動・出来事を複数の时势によって提喩的に描く(可逆、不可逆) 一連の場面・運動・出来事を一つの連続体として字義的に描く(几许の比喩表現はあり)

結論:映画には、瞬間型と動作型の区別が無い。↓ショットの不確定性:描かれた連続体がワンショットかジャンプショットか区別弗成。マンガのコマは、そもそもとぎれである。が、連続表現を実現しているからだ。

用語説明:インサートショット(インサートカット)。挿入(インサート)されたショットはすべてインサートショット、というわけではありません。一連の映像表現の中で独处的なショットがインサートされている場合を特にインサートショットと呼んぶのです。独处せずに連続している(一連のものになっている)ショットは、ふつうのモンタージュ(マクラウドで言う主体型、あるは視線の解除化)です。たとえば、本を読んでいる东说念主物のショットの間に、本自体のショットを挿入する。

関係なし型と関連して補足すると。マクラウド自己は「そもそもコマとコマとで「まったく何のつながりもない」ってことはあるんだろうか?……僕はないと念念うね」(八一頁)と自問自答するように、関係無し型でも何かしらのニュアンスは表現されるだろう。ただし、逆もありうると私には念念われる。インサートショットはもとより、描かれたものがたとえ解除物であっても、二つのコマに意味的なつながりを見いだせない場合、これを関係なし型と言うことができる。たとえば、二东说念主がファーストキスをする。その動作の間に三日月を描いたコマが一つインサートされる。本日の月は三日月です、三日月が見ています、と言いたいならば主体型だし、夜ですと言いたいのなら时势型だろう。しかし、このコマの意味は一呼吸置くインサートショットつまり関係なし型なのだ。あるいは、Aさんが部屋で寝転んでいる、机で手紙を書いている、畑仕事をしている、と三つコマが連続しているとしよう。Aさんののどかな田舎暮しを意味しているならば时势型であるが、それぞれに意味的なつながりがなく、ただたんにAさんが何か(何でも良い)をしていることしか意味しないとき(ショット=シーケンス)、これが関係なし型である。

映画だと、小津安二郎のインサートショットが、ピローショットといわれて盛名です(が、youtubeなどでは、分かりやすい例が見つからない)。

本題です。まず、マクラウドの「5. 时势型」は、メッツの観点からは「3. 括弧入り連辞」(前後関係あり)と「4. 記述連辞」(前後関係なし)とに区別可能である。つまり、複数の时势に時間的な前後関係があるかどうかで、メッツはこれを区別した。ただしこれはメッツとマクラウドの違いであって、映画とマンガの違いではない。

次の例です。メッツの「6.シーン」「7.挿話的シークエンス」「8.ふつうのシークエンス」を見てください。これらは端的に、シーンとシークエンスで、一連の動作、出来事の表現です。これに相配するマクラウドの分類は、いずれも「1.瞬間型」「2.動作型」「3.主体型」を含んでいます。メッツの「7.挿話的シークエンス」だけ「5.时势型」を含むのは、「7.挿話的シークエンス」が「他のシークエンスと連動して、組織化された举座を示す」比喩的なものであるからだ。で、いずれもしても「1.瞬間型」「2.動作型」「3.主体型」をひっくるめて、映画ではシーンかシーケンスに(つまり一連の動作動作・出来事の表現)相配している。ただし「1.瞬間型」「2.動作型」と「3.主体型」とは解除物か非解除物かという区別が可能である。が、「1.瞬間型」と「2.動作型」は一度も切り離されない。つまり、メッツには、マクラウドの言う「1.瞬間型」と「2.動作型」の区別はないのだ。マンガにおけるこの二例に相配するものは、映画においては一連の動作表現でしかないのだ。

さて、一連の動作、出来事であっても、時間の途切れの有無により、メッツはシーン(時間の途切れ・飛躍がない)、シークエンス(時間の途切れ・飛躍がある)とを区別していた。映画では、途切れ(Hiatus)の有無で区別できるが、マンガにはそれがない。動作型には途切れがありうるが、瞬間型には途切れがない、なんてことはないのだ。なぜならマンガはコマの連接とは、そもそも端的に「途切れ」だからである。では、マンガでは連続した動作・出来事が描けないか。とんでもない、コマという途切れによって、連続する運動を描くのがマンガなのだ。この矛盾を実現しているのが、マンガなのだ。 -->

まず気付かされることは、マクラウドの时势型は、メッツ的観点からは「3.括弧入り連辞」と「4.記述連辞」とに細分できるということである。どちらも因果関係は捏たないが、単純な前後関係は捏つ。时势型において示される複数の时势が、可逆的な場合と不可逆的な場合とで区別可能であり、メッツはこれを区別している。ただしこれはマクラウドとメッツの違いであって、マンガと映画の違いではない。しかし、次の点はそうではないだろう。

メッツには、マクラウドの言う瞬間型と動作型の区別はない。メッツ的には、瞬間型も動作型も、ある一つの連続する動作の表現(メッツの6~8)でしかない。連続する映画では、この二つは同じものなのだろう。

このことから逆に(相悖的に)、気付かされることがある。

一連の運動・出来事の表現のうちに、メッツはシーンとシークエンスを、飛躍・とぎれ(hiatus)の有無によって区別していた(メッツの6と7・8と)。シーンとシークエンスの区別は、たぶん専門の映像作者でも曖昧または印象的なもので、その上でさほど支障なく使っている言葉だと念念うので、それを学者が厳密に定義付けることにどれほど価値があるのか私は判断しないが、ただいまの私の興味という点からは、このメッツの区別は極めて示唆的である。とぎれのあるものがシークエンスであり、とぎれのないものがシーンだとして、マクラウドのコマ分類にはそうした区別がなかった。なぜだろうか。それは、マンガにはそもそもコマの間に飛躍・とぎれがあるのかないのか議論のしようがないからである。と言うよりも、すなわち「断絶としてのコマ」は、とぎれそのものでしかないからなのだ。

このことをメッツに即して言うなら、マンガのコマは連続するシーンを作れず、シークエンスしか作りえない、ということになるだろうか。マンガにおけるメッツ的な意味でのシーンは、一コマ画面の里面でしか栽培しないのだろうか。 そんなはずはない。むしろ逆で、コマというとぎれによって連続する運動を表現しているのがマンガなのだ。

映画は、ショット(連続して撮影された1単位。カット)をモンタージュ(編集、合成)している。ならば、次のように対応しているのか? マンガコマ単体コマ 映画ショットシーン・シークエンス

そうではない。マンガの連続するコマは、ワンショットのシーンも描き出している。なぜならわれわれは動いていると念念ってマンガを読んでいるのだから。さきほどの連続的運動性はこの例である。しかし、それがワンショットの一連の運動であるという証拠も、また無い。

ショットの不確定性(例1) この、走ってくる博士は、ワンショット(途切れがない)か、ジャンプショット(中抜きショット)なのか。 矢口高雄『ボクの手塚治虫』(毎日新聞社・1989)。 矢口は、『新宝島』は読めず、『流線型事件』『メトロポリス』の順に手塚体験をした。

ふつうはワンショットに見えるが、ジャンプショットとして読むことも可能である。逆に言えば、複数のコマによって「決定的にワンショットでしかない」運動を表現するのは、不可能である。どれほどコマを増やしてみても無限分割は可能だからだ。古代ギリシャのパラドクスになぞらえるなら、飛んでいる矢は動かない、である。それは、運動(線)は瞬間(点)に還元出来ない、逆に言えば点(瞬間)を集めても線(運動)にはならない、という意味である。「点としての現在」と「直観において捏続する現在」との区別(九鬼周造)である。

ちなみに、ベルクソンは『創造的進化』第4章で、映画を批判して、瞬間によって運動・時間といった捏続を合成しようとするがそれはニセモノである、つまり映画の運動はニセモノだ、あるいはアキレスと亀や飛んでいる矢は動かないなどのパラドクスは映画的なウソだ、などと言った。これに対してドゥルーズは『シネマ』で映画を擁護して、映画の運動と時間はニセモノではなく、ベルクソンもまた『物質と記憶』第1章ですでにこうした「運動イメージ」を、「動く堵截面(ショット)」と「時間的な平面(ショット)」がショットとモンタージュを通して与えているのだ!と評した。が、マンガについては映画やアニメーションとは全く違うとして、ディスっている。「映画は、連続しているという印象を与えるように選ばれた任意の瞬間に即して、すなわち等間隔の諸瞬間に即して、運動を再現するシステムである。これとはまったく別の或るシステムがある。それは、一方のポーズが他方のポーズのなかに移るように、つまり一連のポーズが《変換 transform》されるようにそれらのポーズを映写 project してゆくことによって、運動を再現する、と言えそうなシステムであるが、それは映画とは無縁である。」(『シネマ1』、p.10)

私たちは、ドゥルーズが映画を擁護するために敬愛するベルクソンを批判したように、マンガを擁護するために敬愛するドゥルーズを批判しなければなりません。マンガはポーズ(姿態)のプロジェクト(投影)ではない。

用語説明:ジャンプショットとは、解除物の一連の動作を、同じ画角(アングル)からの断続的な(中抜きされた)ショットによってモンタージュしたもの。ショット同士は連続かつ不可逆(対応する現実の順序通り)に接続されるが、時間の「とぎれ」がある。当然数から3の倍数を中抜きして1,2,4,5,7,8,10……、の類。無理矢理な中抜きの結果とぎれが生じ、時間は短縮される。以下実例を示したいが。博士が走ってくるような適切な例が案外見つけられない。かわりに、ユーチューブでよく見かける、ブチブチ切れた解説動画。これが現在のジャンプショットの典型で、撮影上の不手際か、無駄な部分を省いただけの単純な時短テクニックだろうが、なんとなくリズムが生まれる。マンガ的で、映画のマンガ化といっても良いか。

これも、ジャンプショット(=ショットの切り替えがある)に見えるだろうが、ワンショットとして読むことも不可能ではないだろう。映画の手法をマンガが学んではいるが、マンガの手法がすべて映画に還元可能なわけではないのである。

大友克洋『童夢』1983年、双葉社、216頁

「ショットの不確定性」説

コマによる連続的な表現は、映画でいうところのワンショットに相配するのか、それとも、ショットの切り替えやジャンプショットのような表現なのか、判別できない。という説。

マンガは、映画から多大な影響を受けている。あるいは、借りている。しかし、嫡派の子孫ではないだろう。

ショットの不確定性とは、たんに映画文法に依拠しすぎたために生じた主见ではない。むしろ、マンガのコマ割りは、映画の ショットやモンタージュには還元できないものであることを示している。 マンガを読む者は、「ゴツゴツとしたスタッカート」であるコマから、「滑らかな現実」を作る、とマクラウドは言った。マクラウドは、东说念主はコマとコマとの間を「補完する」と言った。映画のような「ある历程自動的な補完」とは違い、マンガは読者が投入して補完するものだ、と。 しかし、補完や想像力は、深奥の力を言い換え、別の深奥が生じているだけである。

ショットの不確定性とは、映画との比定や引用ではなく、補完システムの解明のためのモデルである。

実利的な意味では、まず、マクラウドのコマ分類のアポリアの解明として诈骗できる。ショットとしてワンショットなのかモンタージュなのか不確定だからこそ、動作型と解除物の主体型との区別ができなくなるのである。たとえ、マクラウドのコマ分類を修正して、解除物主体型と非解除物主体型との2つを設定して見ても、ショットの不確定性により、解決はしない。

ついで、夏目房之介の間白の記号視への反論、つまり間白相识のもうひとつのモデルとして。間白に何かしらの意味作用が在る故に、东说念主はコマ間を補完できるのではない。その典型的な凡例として、ショットの不確定性は有効だろうと念念う。すなわち、間白の補完は予め決定できないのである。が、东说念主は作品を読み進めていく。そして、主体的に意味を見出していく。この行為の積み重ねによって、事後的に、あたかも間白に意味が在ったかのように念念うのである。逆ではない。この積み重ねによって东说念主(作者・読者)は、記号的な間白を信じるようになる。

さて、ショットの不確定性は、何以に起るのか。それは、マンガにおける二重の概略によってである。 ①非ドラマ的なものの概略。ドラマ的なものの構成。 ②断絶としてのコマ(連続写影としての映画との根柢的な違い)。

①は、説話論経済性(経済的効大肆)に依拠しており、②はマンガの芸術的宿命である。そして、①は②を根柢に捏っている。②を捏続としてつなげうるのは、东说念主間の捏つ想像力によってである。

しかし、実は「ショットの不確定性」とは偽の問題である。 --> 【追加】

マンガのコマ、映画のショットのモンタージュ、この二つには、似ている点と違う点とがある。どちらも言語的に贯通する時には、似るが、違う点としては、マンガのコマは動かず、かつバラバラである(あたりまえですけど)。でも、動いていますよね(?ね)。バラバラなのになぜ繋がっているかは、マンガにはハッキリ表われた問題である。が、映画では、問題視されないのか?(映画は連続をそのまま実現している)。絵画や小説では?そしてそれを繋ぐのは、想像力なのか?ならば、想像力とは何か?《大东说念主からも想像力を奪わないでください》 バラバラなものを繋げる三つ可能性。 ①作品外の規範(文法、記号) ②作品外の想像力(読者) ③作品内の捏続力として、

マンガは、動きが実現されている。それはなぜか。①はあり得ない。それだと、寰宇は与えられた解答を探すだけの営為になってしまう。②は、想像力と言い換えているが、想像力は何か、それ自体深奥である。深奥を別に深奥で言い換えただけである。さて、そんな難しいことは考えるのをやめて、繋がっていると念念って読んでいるし、実際繋がっている感じがするんだから、それで良いじゃないか、マンガ盘考はつまらない袋小径に陥っているから、はやく脱出すれば良い、という考えも成り立つでしょう。(それでよいかもしれない)。

しかし、この問いは、玄学も含めた、无数的な問題なのである。

プラトンは基本的に、寰宇の生成変化を認めなかった。こうすれば、問題はない。寰宇の変化は幻にすぎないし、繋がりも幻にすぎないからだ。①アリストテレスは変化を認め、その旨趣を方向論に求めた(寰宇はデュナミスがエネルゲイアへ変転するプロセスである。ただし方向論的な当然観に従えば、その将来は決まっており、そこに摆脱は無くなる)。この当然観を替えたのがデカルトである。デカルトは、寰宇(物質)と我方(精神)と神の実在とを認めている。物理的な実在の連続の証明のために、連続とは点の集まりと考えた。これが近代の当然科学であり、点としての時間(数学的)である。寰宇創造説(神はこの领先の一撃に不可欠である。が、この時に不可欠なだけで、他では不要となる)。さらに、寰宇は瞬間毎に消滅と生成を繰り返す点の积蓄である、と考えた(cf. テレビの画面)。バラバラの個別感覚が、何如にして連続を可能にするか(カントの統覚)。

この問題の現代版が、印象派であり(普段に変化する光を描く)、キュビズムであり(一視点=固有形態、固有色の解体)、マンガである。东说念主間の認識力が捏続を作るという考え方は②である。観念論。たとえばカント玄学(卓越論的観念論)、現象学(デカルト=カント玄学の現代版、寰宇は意味として我々にどう表われているか)、ゲシュタルト神志学(現象学の神志学版、身分に換言されない举座性)。

マンガは繋がるもの

繋がる文法、記号があると考えるのが間違いである。

寰宇はある種の連続した完成体ではなく、つくられつつある、変化しつつあるものである。ベルクソン、ドゥルーズの考え方として。あるいは、ベルクソンは、アリストテレスの方向論とも、デカルトの機械論(偶而的当然観)とも異なる、寰宇の捏続を認めた③。ギブソンのアフォーダンス理論なども、こちらに近い。

さらに補足:私(高橋)は、东说念主類は全然進歩していないと考えていますが、ただ不可逆的な展開というのがあるとしたら、それは底本合致していたものが分離していく過程が、东说念主類の進歩(崩壊かも)であるという観点をもって相识出来るかな、と考えております。たとえば、真善好意思はかつてイデアにおいて一つであったが、それが徐々に分離独处していく。真(正しさ)、善(良さ)、好意思。

あるいは、運動と時間と生成とは、かつて一つであった。アリストテレスの時間論は、運動が時間を作り出すものであった。動かないものには時間は生じなかった。ニュートン以来、時間は運動から分離独处した(絶対空間と絶対時間)。さらに、運動とも時間とも切り離された生成が可能となる。

切り離された生成とはなにか? 視覚映画(映像)は図像と音声から成り立つが、かつてはそれは描かれた唯独の現実(時間と空間=運動)を意味していた。が、映画によって図像と音声とが分離可能となり、図像も音声もそれぞれがSFX(特撮)やCGや合成、シンセサイザー音楽などにより合成・分離されるようになった。生成されたものを裏付ける時間や空間=運動はもはや存在しないのである。

これをさかのぼれば、絵画によって分離独处された視覚像があり、言語によって分離独处された主见があるはずである。寰宇は、さまざまな進歩によって、そのバラバラさ(分離独处)が実現されていくプロセスとして実在している。そもそも、一つのものから多様性を生み出すのがプラトニズム(プラトン玄学)であった。一と多の往還。

そして、にもかかわらず(寰宇の身分はすべて分離されたバラバラなものである)、寰宇は表われている(一つであるかのごとく)。この寰宇のあり方が、一つの(マンガ)作品の中で起こっていることなのである。言葉は単なる音の羅列であり、かたちは線や色の集まりであり、にもかかわらず、一つの(作品)寰宇を(当たり前のように)作る。领先に述べたように、物理的な線(インクの染み、黒鉛の粉)が、図像(意味対象・観念)を作り出している。単なる物理的なモノが、観念・主见へと飛躍している(モノからココロへ、個別から一般へ)。或いは、対象再現という意味で言えば、鉛筆の粉やインクの染みが、描かれたものそれ自体であるかのような超出を実現している。 これは、実にあたりまえの事ではあるが、極めて不可念念議な、奇跡のような現象である。 -->

不决稿 2021-04-21 (Wed)

絵巻、紙芝居がある日本文化

「日本はなぜこんなにマンガが発展したのか?」という(日本すごい式の)問いに対して、「手塚治虫がいたから」という回话が一時期流行った。一东说念主の天才に事理を求める態度であるが、半ば事実かもしれない。手塚が一火くなった直後、その顕彰の意味でリップサービス的に流行ったとも言える。手塚はいつもトップランナーだったわけではなかった。

「間を大切にする日本文化」みたいな言説は、先のS・マクラウドも述べていたものである。私はそうした文化の本質主義(当該文化にはそれがそうなる势必性がある、と考える)を嫌うが、 なぜなら、そもそも、かつてほど日本のマンガの優位性は保証されていないからである。90年代以降、アメコミも水準はあがったし、フランスのBD(ベーデー)はそれまで日本东说念主があまり知らなかった。

とはいえ、マンガ家で理論家でもあったみなもと太郎が言う「紙の視覚文化が発達した日本」という説には、すこし惹かれるものがある。絵巻や、紙芝居など、番邦には無いのだそうである。本当か?古代エジプトの壁画は?パペットなどの东说念主間劇は寰宇中にあるが、紙で劇を見せる文化は日本にしか無い!?

細木原青起『日本漫画史―鳥獣戯画から岡本一平まで』大正3年刊(岩波文庫 2019年刊、青582-1)は、日本のマンガを歴史的に跡づけて、その发祥を伝・鳥羽僧正作『鳥獣戯画』と見なし、その他の絵巻物。大津絵、晚世絵画(英一蝶、探幽。北斎など浮世絵)、明治以降の漫画など通覧している。途中はさておき、鳥羽僧正『鳥獣戯画』と葛飾北斎『北斎漫画』は、日本マンガを語る時のメインキャラクターの一东说念主でアリ続けた。

こんにちさらには、アニメーション作者・高畑勲の『一二世紀のアニメーション』などで、絵巻物がまさしく動く絵(アニメーション)そのものだ、と挑剔した。この本は、絵巻を盘考する日本好意思術・日本文体盘考者らも一目置くほどのレベルである。

ところが、他方で、私も嫌う日本文化の本質主義的な態度を、さらに徹底的に批判するがゆえに(か?)、当天のマンガ(戦後マンガ)に『鳥獣戯画』や他の絵巻に求める態度を全都含糊する立場の东说念主々もいる。その実績的な中心は大塚英志である。かなり説得的な議論を展開していると念念われるが、私は、それは言い過ぎのような気もしている。 みなもと太郎『マンガの歴史』1、岩崎書店 2017年 大塚英志『ミッキーの書法 ― 戦後まんがの戦時下发祥』角川学芸出书 2013年 雑誌『ユリイカ』青土社 2021年3月号 「鳥獣戯画特集」 高畑勲『一二世紀のアニメーション―国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』徳間書店 1999年

これらの説を、すこし頭のかたすみにおいて、次の並存性の問題に移っていきましょう。

コマの並存性

マンガが映画と違う点は他にもある。 マンガはあくまで、見開き単位で鑑賞する芸術だろう。継起性にくわえて、マンガは総合芸術として並存性も有している。 これについては、夏目房之介が詳しい。 夏目房之介『マンガはなぜ面白いのか』第10章「コマのはたらき」より(NHKライブラリー66 1997)[概略]-->

レオナルド・ダ・ヴィンチならば、マンガの並存性をバカにしただろう。フレスコの壁画について、次の様に述べているからだ。 礼拝堂の壁に絵を描く者たちが齐従っている一般的なやり方は、まことに嘆かわしいものである。彼らは、風景とか建物をある高さのところに描いて、ついでその上に、違った視点による別の場面を描き、さらに三段目、四段目という具合に、一つの壁に四つの視点から見られた四段の絵が高下重なるように描くが、これらの画家たちのやり方は、愚かさの極みというべきである。われわれがよく知っているとおり、視点は、その場面を眺める者の目の高さに対応しなければならない。(絵画論『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(上)』岩波文庫、二四一頁)

アレッツォのサン・フランチェスコ聖堂 ピエロ・デッラ・フランチェスカ。こういうのはダメだというわけ。

レオナルドは壁画の旨趣として、アリストテレスがかつて悲劇の定式化をして述べた時・場所・行為の三一致にも比すべき、「一壁画、一空間、一場面」という三一致の原則を打ち立てているのである。そうしないと絵をみて心扉が沿わない、と言います。比較的短い時間を描いた『最後の晩餐』などはそうなっている。

しかし、長い物語を描くにはどうするか。実際には妥協案も捏っていた。 さまざまの事件に本体が分かれている聖东说念主の生活を一つの壁面に描くときにはどうするかともし君が尋ねるなら、私の答えはこうである。君は、その場面を見る観客のちょうど眼の高さのところに出息の平面を設定し、その面の上に领先の場面を大きな圭臬で描き出さなければならない。それから、奥の方のいろいろな丘とか野原に东说念主物や建物などを轮番に小さくなるように描いていって、举座の物語のための舞台設定をしなければならない。そして、壁面の残りの部分に関しては、东说念主物と関係させて大きな樹木を描き込んだり、もし物語の本体がそれに適しているならば天神とか、あるいは鳥とか雲などで埋めるようにすればよい。もし他のやり方で描こうとするなら、君は無駄に长途を費やすことになるだろうし、君の作品も駄目になってしまう。(前文の続き)

レオナルド『マギの礼拝』(修復)。ただしこれは壁画でなく板絵。

主題を真ん中におき、他を小さく脇に建立していくという、遠近法的な異時同図。さて、だとすればボッチチェッリ『モーゼの試練』は、大きさも同じ異時同図だから「愚かさの極み」なのか。

そもそも东说念主類には、さかのぼるとこういう絵がある。やはり「物語」ではあるが。《センネジェムの墓》エジプト、テーベ。ゴンブリッチは次のように言っている。

エジプト东说念主たちは、イメージ(図像)を違った方向で用いていた。ここでわれわれはレオナルドの問題に再び戻ってくる。古代エジプトの墓室の壁では、イメージは、たしかに何段にも重なった層に分かれている。しかしその役割は、象形翰墨による銘文から死者に奉仕するためのさまざまの仕事や死後に待ち受けている裁きの場面にいたるまで、なによりもまず象徴的なものであり、ほとんど絵翰墨と言ってよい。それらのイメージは、ちょうどテキストを読むように順を追って読まねばならないものであり、そのためには、何層にも重ねることはほとんど不可避のこととなるのである。E・H・ゴンブリッチ『妙技と方向―フレスコ画の歴史』高階秀爾訳、24頁

探花av

ゴンブリッチは至极に頭が良いが、時によすぎてしまう。絵(イメージ)と翰墨(テキスト)との区別を、自明視することで、レオナルドの(無理な)主張を是認しようとしている。「絵を重ねて描いてはいけないが、翰墨なら重ねてもしょうがない。エジプトの図像は翰墨なのだ……」と、ゴンブリッチは解釈した。レオナルドの主張は絵における心扉移入の一つの梦想だが、しかし、ボッチチェッリの妥協のほうが正しいと、マンガ盘考者の私は念念う。

何層かに重ねられたマンガは、絵翰墨によるテキスト(象形翰墨の著述)なのか?まさか!壁画ほど大きくない(視点の高さを問題にする必要は無さそうである)せいもあるが、マンガはあくまで絵画だ。なぜなら、順序を必ずしも一元的に決定されていないからである。(すごい絵だから、前に戻ってしまう。絵画は一望的な対象だが、それは、順序を定めず視線が動きうることを意味している。ならば、一意に順序を決定しないコマ割りは、まさに絵画=一画面である)

もちろん、層をなすフレスコ壁画も、レオナルドの但愿に反して絵画だ。……と言いたいわけです。 コマ割りのデュナミス―意味に還元できないもの、言語化できない図像

(例1)大場つぐみ・小畑健『デスノート』第8巻

このシーンを最も感動的に読む読者は、右頁1コマ目の、総一郎の目の色の変化に興奮し、読むのに(相识に)時間がかかる『デスノート』。

マンガのコマ割りには、読むべき順序が記号・文法的に決まっているにも拘わらず、われわれはその順序を飛び越えて、読み進めてしまう。作品が読める、とは記号順に操作しうることでなく、自分のペースの順序を対象から読みとることである。この時現われるのは、絵画の本質的空想である一望性(並存性)である。段にわけられているものを一望する。それは技術(読む技術、さらにはそれに信頼した書く技術、習熟を必要とする)ではあるが、文法(だれもが使える法子・手順、習熟を必要としない)ではない。

いわゆる「早すぎた下葬」。死者が墓所からよみがえってしまった!しかも腐ったまま。このしつこいコマ割り。もどって読んでしまう。瞬間型よりさらに、あらたに反復型と私は名付けました。 (例2)楳図かずお『おろち』

(例3)大友克洋『サン・バーグズビルの想い出』(所収は『SOS大東京探検隊』講談社)もっとスマートでシャープな例。

自作解説で大友は次のように述べる。「本体は、举座的にペキンパーの影響が強いです。「ワイルドバンチ」なんかの同時進行的なカット割りみたいに細かいカットをランダムに並べた銃撃戦とかを、描きたくてしょうがなかった。これはそういう映画独自のカット割りを漫画でやりたかった作品です。」 この室内での早撃ちの銃撃シーンは、コマの建立もコマの本体もランダムで一意な継起性を酿成しない。 ワイルドバンチ 銃撃シーン 約6分 2の視線の誘導

「圧縮と開放」説は、映画には無く、マンガ独自の表現法子。

3の旨趣論

映画でも言われる、上手・下手の气候性を、拡大解釈したもの。ナンセンス。

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(例4)1970年前後の石森章太郎

画面の並存性をもっとも重視・展開したのが天才・石森章太郎であろう。 タテぶち抜きのコマ(『闇の嵐』)    これはパクリではないか。技巧としては、パラレル・アクションを使ってある。(手塚治虫『日だまりの樹』)   

風とフラッシュのカットバックから、黒ベタの大ゴマへの落差。(『仮面ライダー』)

アップ、ミドルショットなどの配分は完璧だろう。マイナンバー(右頁4コマ目のネームの国民総背番号制)も仮面ライダーにやっつけてほしい。(『仮面ライダー』)

戦闘シーンを不等辺四角形でモンタージュし、そこにかぶさるオノマトペ。動作を时势的に見せている(『イナズマン』)。地味だが、職东说念主業的にうまい。

1コマ目のカーテンのゆれは、怪东说念主の侵入を表現している。2コマ目へはイマージナリーラインを越えるが、極端な俯视からゆえ気にならない。2コマ目以後も石森ならではの幾何学的なコマ割りで、長ゼリフも飽きさせない。

(『ロボット刑事K』)

単純ゆえに果敢な4段割りで、静と動とを対比的に表現する。これを逆に、このままアニメにしたらチープな映像になってしまうだろう(『サイボーグ009』)。そこが、アニメと漫画が違う、不念念議なところ。

このリズムは、赤塚不二夫も結構使うが、なぜかギャグになる。(『レッツラゴン』)。これもフシギ。

あらま凡庸な……と念念ったら(左頁1~3コマ目)、009は加快中。やはり動と静。(『サイボーグ009』)

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動線とコマ枠が一体化している。そして、カットバック(落下中のライダーと、ライダーの視界)を、因数认识したような(セリー毎に集約している)コマ構成。加快落下のみならず、ゆるやかにスピンしているのに気付きましたか?

(『仮面ライダー』)

なお、ついでに。いじってみたが、これだと魔力半減。

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大ゴマに点景としての东说念主物。これも石森は多用するが、ともかくすごいコマ構成。びっくりして前に戻って確かめるのでなく、じっくり领先から絵を相识して読み進めたい。

(『ロボット刑事K』)

見開きで見せる絵は、ノドの部分で切れているからみっともないし不当然だが、それを自覚してギザギザを入れ、装飾的にこれを秘籍してしまう。こういうアイディアを天才的って言うのでしょうね。

(『龍神沼』)pdf ただしカナビポータルのアクセスのみ

(例5)楳図かずお

「飘动教室」1972年。継起性を重視した細かいコマ割りが楳図の基本である。

『わたしは真悟』1982年、しかし、実際は並存性も诈骗している。エレベータで東京タワーを昇る、さとるとまりん。